2012/7/24 九州旅行4日目 長崎

概要

行き先 長崎県長崎市
目的 重伝建訪問
同行者 なし
鉄道乗車距離 307.8q


発着時刻 駅名 行先
06:00 博多 特急 かもめ1号 長崎行
08:01 長崎 (到着)
17:21 長崎 特急 かもめ38号 博多行
19:14 博多 (到着)

当日の流れ

この日は観光コースを外れて僻地まで歩くので少数班希望にしたら一人になった。別行動ながら長崎には行く部員とかもめの4枚切符を買った。これは往復5000円の神切符だった。3日前くらいまでは4枚切符を4万円切符だと思いどこの狂人が買うのかなとか思った。

さて、朝6:03発のかもめで長崎へ。かもめの中で寝ながらポケモンをしていたらしい。検札の時、いつのまにか寝ていたが、バトルタワーは進んでいた。

8時くらい駅に着くと、改札外にコンビニを見つけられなかったので朝食の時間が浮き、路面電車の1日乗車券を買った。する、なんと8:19に出島についたので、出島を先に見ることにした。なにせここは8時からあいている。さすが。

出島の内部は再現町並みと博物館という感じ。ここは昔DQNがやってきたのか、いちいち注意がうるさい。※21世紀美術館ほどではない。例えば、はかりが展示してあって「乗るな」とか床下の遺構のふたに「下に入るな」とか馬鹿らしいことばかり。へえと思ったのは畳に直接机を置く(畳が傷むから机の足には布を巻くんじゃないかと思ったらそのまま)のと、商館員の個人貿易が盛んになって東インド会社の利益が減っただとか、ナポレオン戦争でバタヴィア共和国だったりホラント王国だったり併合されたころオランダ人が守れたのは出島のみなのでオランダ人は出島を誇りに思っているとか。なぜかいくつかの施設に入り忘れて1時間くらいで出た。

ここから大浦海岸通まで路面電車。そこまできてまず旧英国領事館に行こうと思い走った。するといつの間にかなぜか旧上海香港銀行にいた。反対方向に走ったようだ。気づかなかった。結構距離がある上どうせ最後に来るつもりだったのでとりあえず入った。外見は門司や下関の物と比較すると明らかに違う。鉄筋コンクリートのアメリカ建築である。3階ではこれは辰野金吾と対立して長崎に来た建築家の鉄筋コンクリートのアメリカ的建築だとか山手の洋館郡の説明があって最初にきてよかった。アメリカ式も辰野金吾らのヨーロッパ式とは違ってまたいいと思う。(実際関東大震災でヨーロッパ建築の弱さがばれたわけだし。)また、長崎港の歴史みたいなものもあって上海航路の重要性とかを説いていた。2階は世界が認めた人形みたいな感じで郷土の人形作家の超人気人形展みたいだったが人形が気持ち悪すぎて不快になり見ないで逃げた。

とりあえずみ終わったので、間違える前のところまで走り旧英国領事館へ。だがここは野口弥太郎とか言うどうでもいい人の美術館にされている上閉まっていた。下関でもここでもイギリス領事館が閉まっていた。


建物は裏口からなんとか見えて雰囲気は分かるが、時間がすごく余った。なのでゆっくりオランダ坂をあがり、写真に出てくる分かれ道を過ぎ(ここで引き返す観光客が多いらしいがそれは交通費をどぶに捨てるようなものだ)東山手12番館へ。ここで長崎の洋館は壁が水色ばかりで驚いた。なかは私学の歴史とかあった。全国のミッションスクールだとか来日した教育家の功績について。

坂の途中に一見病院に見えない昭和会病院とかいうのがありこれもレンガ造り洋館でよかったが、薬品のにおいで体力が10%くらい減った。また坂を下り町並み保存センターに行く。洋館が密集していて古い写真が中にあった。現在との比較とかがあり面白かった。変わっていないところと面影すら失ったところがあった。河川の拡張や流路変更だが、これは完全に地形を変えてしまうので、雑にはやってほしくないのだが、どうもここではかなり行われたようで、それによって町並みがかなり変わっている。ここで分かったのだが、オランダ坂は一方通行でないので、狭いところに大量に車が突っ込んできてあぶないところだ。また、工事もやっていてコンディションは最悪だった。ろくに写真も取れやしない。

時間があまったので孔子廟に行く。中国の土下座して頭を打ち付けるみたいな施設があった。孔子はどんな形式で参拝するか知らないので適当にやった。奥の博物館は故宮の国宝をこんな地方に持ってきて見せてくれるのでありがたい。大清帝国皇帝の判子とか北方の居民族への金印とかいろいろあった。「倭の奴の国〜」との比較などもあり参考になった。これもがらがらでよろしい。ここは共産党の博物館から国宝をもらっているが「現在故宮博物館院は中華民国と中華人民共和国にある」みたいな問題発言があった気がする。まあ穴場というところ。ここでさすがに脱水が進行し、ミルクティー縛りは生命に影響を与える気がしたので残念ながらファンタオレンジの類似品を買った。

とりあえずオランダ坂付近は見たので、石橋電停から大浦天守堂下まで行く。ここからすごく観光地的な通りを抜け、大浦天主堂に行く。建物は唯一の洋館国宝だけあってすごくきれいだった。信徒発見のことや、その時のマリア像等があった。一番面白かったのは「コルベ神父特集」。最初意味不明で誰も知らないようだったが、説明を見るとアウシュビッツで餓死刑になったあの人だと分かり、なぜかそこだけ誰も居ないのでゆっくりみた。

その後はとりあえずグラバー園に入ろうか、ということでエスカレーターを上がってとりあえず三菱第二ドックハウスへ。花を見に来た観光客ばっかで混んでいる&うるさい。極め付けには中の展示が竜馬一色で「弥太郎って〜がやってる人だっけ?」とかいう親子とかわけの分からない人ばかりでやめてほしかった。ここで早速順路が分からなくなりとりあえずウォーカー住宅に行く。次にリンガー住宅に行く。この二つは印象が薄い。

次にオルト邸の前に行くと結婚式をやっていた。よって前からみれない&うるさい&中も一部封鎖。運がない。なのでとりあえずスチイル記念学校へ。人がいなくてゆっくりみれると思いきや結婚式のカメラマンがここのベランダから撮影し展示室を走り回り叫んでいてうるさい。だが展示内容はここが一番よかった。なぜならここは帆船の模型があってHMSプリンス(1670年建造。建造から130年くらいたったのにナポレオン戦争でトラファルガー沖海戦に参加。展示は痛いことにトラファルカーと書いていた。130年使えるなんて技術の発展の停滞が見られる。)とかプリンス・ウィレムとかがあった。だがべつの説明文だとオランダ国王「ウィリアム」だったので読み方をウィレムに統一してほしかった。

ここをでてオルト邸へ入ると結婚式の騒音の中見る羽目になった。隙間のあるレンガじきの床があってはじめてみた。ハイヒールだと転ぶかもしれない。ここを出て、最古のアスファルト道路(生垣の中で見向きもされないがよくみると初期のアスファルトで面白かった)を見た後グラバー邸へ。最初は道を間違えて、グラバー邸を見忘れて外に出ようとした。門まで2メートルのところで気づく。

グラバー邸は展示がそこまで深くなく、数日前にヒストリアを見てしまった実としては楽しみを失った。素材がすばらしいだけにもったいない。まとめるとスコットランド生まれの彼は日本で一発当てようと移住し武器商人になり、藩に武器を流して維新の功労者になりました。みたいな感じである。だがグラバーが幕府にアームストロング砲を流したりしていたのは無視で、明治維新の功労者とかしか書いていないのでどうなのかなとも思った。これでグラバー園を見終わり、外へ出た。全般的に面白くないと書いたが、建物自体はすばらしかった。そもそも資料館じゃないので許す。このレベルのスタイルの違う洋館密集している施設となるとあまりないだろう。

さて、ここからは間違えて工事中のよく分からない洋館にまちがえて入った後、南山手の小さな保存センターを見た後観光コースをはずれ居留地へ入る。暑い&自販機がないということで困ったが耐える。誰もいない道を進むとさっきまでとは打って変わって居留地時代の石碑がよく出てくる。一見ただの石だがよくみると居留地入口だとか書いてある。これはここに石碑があるとしかなく市には解説を書いてほしい。グラバー園で帰る人はもったいない。

とりあえず静かな道をひたすら歩き廃病院にしか見えない小学校をすぎマリア園と言うレンガ造りの養護施設を見た後時間が余りすぎて居留地を全部まわることにした。とりあえず路地があったので曲がったりしてふらふらしていると居留地をいつの間にか出ていてあわてて戻った。変なところに行き過ぎたようで地元民が野焼きをしていたりだった。ただし、道のレンガと石を組み合わせた特殊な塀があるなど居留地時代のものが残っている区画なので過去との比較写真が効果を発揮。ドンドン坂を下って路地を上ってレンガ街を見た。来るのは非常に面倒だが、来るととても面白い。ひたすら周りがレンガの壁の坂なんてのは一見の価値あり。特に、旧ロシア領事館はソ連がうち捨てて入り口の階段は適当に石でふさがれ、かすかに遺構が見えるというのがとても面白かった。

全体的によかったが、最後に極め付けが来た。とりあえず状況を説明すると、坂の上からバラックが見えた。非常にギャップがあるがこれぐらいなら驚きはしない。そして坂を下りた。すると何やら変な看板が。目に入ってきた文字はなんと、「ソ連邦」。ソ連と書くものが多い中ソ連邦と書くのは珍しいと思い文を読んだ。文を転載すると、「この土地はソ連邦の所有として昭和62年10月19日、日本の法律に基づいて登記されてあるところ、日本政府は平成3年12月27日、ロシア連邦をソ連邦と継続性のある同一国家として閣議承認したためロシア連邦の所有となったものです。許可なく使用したり立ち入るのを禁じます。以下略」というロシア大使館の布告とのこと。ここまででは何のことだか意味不明なので奥に侵入すると、数十年時が止まったような地区だった。なんせトタンや木でできたバラックが大量に立ち並んでいてそこがロシアのものだというのだから。ここが最近までロシアのものだった。ちなみに家に帰ってググると「ここはロマノフ朝の領事館の所有地だったがソ連邦は放棄し空き地になった。そこに原爆で焼け出された長崎民が勝手に住み着いていたが1987年にソ連邦が急に所有権を主張しそのごロシア連邦vs地元民の裁判になり結局一部は土地を買い、そのほかは移住した」らしい。ソ連邦は放棄してから65年くらい、住み着いてから40年という時期までなにも言わなかったのだ。建物は個人的に予想した終戦後のバラックというのは当たった。日本とロシアはここでも領土問題を抱えていたようだ。ここは必見スポットとして推す。

さて、これで居留地をすみまで見た。近代のコンクリート箱のような家やら明治の洋館やらバラックやらなんでもあったきがする。港で帆船祭りがやっていたので祭りに参加する。ウラジオストクの水産学校の船なのに来場者は「水兵さん」などといっていた。そもそも来場者のほとんどは「イケメンロシア水兵」目当てらしき20台女性だった。

この後、鼈甲工芸館に行った。旧長崎税関の建物だが。鼈甲というものを知らなかったので最後まで何の工芸品なのか不明だった。

そのあとも帆船祭りの海岸沿いで何も考えず歩いていると、いつのまにか到着予定の出島電停からとても遠いところにいた。ということで走って出島電停に行く。ここから路面電車に乗るわけだが、路面電車が鬼門だとは夢にも思わなかっただろう。

まず、眼鏡橋に行こうと思って賑橋電停、つまり乗り換え案内で調べたとおり西浜町で乗り換えて蛍茶屋行きに乗るべきだった。しかし、何故か築島で降りたくなって正覚寺下行きに乗ってしまい、そのまま「賑橋マダー」などと思って乗っていたら、終点・正覚寺下にいた。しょうがないので近くの黄檗宗の寺、崇福寺へ。黄檗宗の寺は初めて来たので、どこかのガイドが大きな声でしている説明を聞いた。ベンガラだったが吹屋とは色がずいぶん違った。巨大な釜(飢饉の時3000人分のかゆを炊いた)があった。また、黄檗宗の寺は特殊な建築様式で、天井に特徴があるだとか床に石を斜めに敷くだと聞けて、面白かった。ここは唐からの人々が立てたらしく、門にかわいい蝙蝠の細工があったり、ほかにも中国風の建物が有ったりした。

まだ時間が少しあったので今度こそ眼鏡橋へ。蛍茶屋行きに乗るはずが、来ていた電車が駅方面行きという事に気づかずまた間違えた。なので観光通で乗り換えようと思ってそこで待った。今度こそさすがに間違えなかった気がする。なにせ乗り換え組みがいたのと、2つしか路線がないからだ。賑橋につくと、眼鏡橋など多くの橋が近くだったため片っ端から見ていった。中にはいつから有るのか分からない橋があって面白かった。眼鏡橋は普通にきれい。また、そこにグラバー邸をまねしたトイレがあった。上野彦馬生誕の地もここらしい。ということでここは特筆することもなく駅に帰る。だが、ここでも電車の行き先を間違えて一本逃した。一人だけ乗らないので運転手に不審に見られたが乗ればよかった。
ということで駅に行き17:21のかもめで帰った。