2011/7/26 四国旅行5日目 塩飽本島

概要

行き先 香川県丸亀市塩飽本島
目的 重伝建訪問
同行者 4人
鉄道乗車距離 947.3q


発着時刻 駅名 行先
06:01 松山 予讃線 普通 多度津行
09:57
10:00
多度津 予讃線 普通 高松行
10:06 丸亀 (到着)
16:06 丸亀 予讃線 サンポート南風リレー号 高松行
16:14 坂出 快速 マリンライナー 岡山行
17:03
17:08
岡山 山陽本線 普通 姫路行
18:43
18:57
姫路 東海道・山陽本線 新快速 長浜行
21:25
21:28
米原 東海道本線 普通 大垣行
22:02
22:09
大垣 東海道本線 快速 豊橋行
22:41
23:20
名古屋 快速 ムーンライトながら 東京行
05:05 東京 (到着)

当日の流れ

6:01に松山を出て10:06丸亀着。寝ていた。同行者が観音寺のあたりで18きっぷを落としたらしいがしょうがないので進み、10:40の丸亀港〜塩飽本島のフェリーに乗る。

フェリーからは瀬戸内海が見える。島が多いことで。そんなことで11:15着。とりあえず自転車を借りて走る。が、ここで問題が起きる。なんと、ある同行者が自転車に乗れなかった。それでゆっくり走りと塩飽勤番所へ向かう。この島では、藩の支配を受けずに水軍の家が複数人で自治をする権利が与えられていたので、その政庁が勤番所である。中には信長・秀吉・秀次・家康と権力者たちからの安堵状などがあった。

それにしてもこの島は寂れている。半壊している家があるわ、人が歩いてないわと悲惨な状況。なお、咸臨丸に乗った水夫はこの島出身が多いが、その子孫の家にはそれを示すプレートが貼ってあった。

今度は重伝建指定の笠島集落へ向かう。割と遠い。途中で同行者1人がが置いていかれる。地図を持っているのが私ともう一人だけなので、電話で話しなんとか合流。まずは専称寺へ向かうが、蚊が多すぎる上に見る物が無く退散。

こうして重伝建地区へ入る。舗装は茶味がかった灰色なのでよかった。しかしここで問題が。班員的には、重伝建地区は自転車で通過するのかと思ったらしいがそんなことはなく、ここに自転車を置いてゆっくり回る予定である。

ゆっくり歩き資料館へ着く。おっさんが1人でいた。海岸に近いが井戸は淡水だった。おっさんに「伝建指定される寸前に家をぶっ壊した人はいた?」と聞いたが居なかったようだ。笠島集落は不便なところだが守ってくれる人がいるのは結構なことだ。

そして町を周る。班員に嫌そうな人のが多いので「中3以上は分離していいよ」というと同行者1人が島1周をサイクリングをするらしく分離。そうして町を周る。

ここの家の特徴は焼板かな、と。焼いた黒い板が壁になっているのだ。町の配置でいえば水軍の城下町なので道が意図的に曲げられ視界が聞かないこと、そして山際の寺社と平地の家という中世からの町のかたちが残っている。これは山際に沼名前神社などが山際にある鞆の浦もだが。

山際の方へ行くと、半壊した家などもあるかなり寂れたところがあった。神社があったが、蚊のせいで退散。また、傾斜のある広場が有った。説明を見ると元は芝居小屋が建っていたので席が傾斜していたため今も地面が傾いているという。

途中で顧問教師と遭遇した。顧問氏は児島行きフェリーで帰る予定だったらしいが、同行者が18きっぷをなくしたことを言うと、18きっぷを分けてくれることになり丸亀へ来てもらうことに。そんなことで見終わって戻る。

途中で、自治をしていた住民である「年寄」の異常に縦長の墓を見た。また、埋め墓もあった。これは死体を埋めるのに使う、石を上に置いただけの墓と参拝用の墓が別にある仕組みでごく一部の地域でしか残っていない。民俗学的には貴重らしいが、時間的に外を軽く見て帰った。

こうして見終わり高速艇で丸亀へ。駅で解散し、丸亀城へ行っていない私と美術館へ行くその他に分かれた。丸亀城は遠かった。商店街はシャッター通りと化していた。行くのに時間を要して上に山の上まで行くのは無理そうだったので、外から天守を見て資料館へ行った。資料館は常設展示が休みで、「フクちゃん展」というものをやっていた。フクちゃんは新聞4コマのキャラである。つまらなそう、と思いきや新聞漫画だけあって一部時事要素を含んでおりなかなか面白かった。そうしてちょうどいい時間になり帰る。

そうして16:06の丸亀発で22:41名古屋着。名古屋では、ダッシュでmanacaとicocaを調達し、MLながらに乗車。

ちなみにですが、早朝に東京駅についてそのまま家に帰るのでは18きっぷがもったいないので、甲府に行ってきました。昇仙峡に行ってみたり武田神社に行ってみたりとして夜に帰宅しました。