当日の流れ - part 2
内部撮影禁止につき、以下1枚も写真が有りません。コチラをご参照くださいませ。
さて、今度は建物内へ。ここは現役の接遇施設だけあって撮影禁止。死角がないのでは、と思うくらいに説明員兼監視員のスタッフがそこら中に配置されている。私はTシャツにバッヂを付けていたが、上からボタンをせずにシャツを羽織っていてバッヂが見えにくかったので、途中で確認された。
廊下の壁は金箔も使われているが、基本的に白地。だが、漆喰によるレリーフが各所にみられるので派手である。所々に九谷焼の花瓶が置かれている。詳しそうな夫婦がスタッフと色遣いの珍しさについて語っていたが、全然分からない。
まずは彩鸞の間へ。高齢の男性がボランティアガイドをしていた。記者会見はここで行うとのこと。漆喰で装飾された白壁だが、金箔がいたるところに貼られている。ここはナポレオン1世時代のフランスの様式を導入したという。そのため、刀やラッパといった軍事的なものやスフィンクスをモチーフにした装飾が多い。シャンデリアは明治にフランスへ注文し輸入したものであり、震災時にも落ちていない。また、ここの大きな部屋は大抵、床がケヤキの寄木細工で、ここもそうである。だが、床の端のデザインは各部屋によって異なる。これらは昭和の大改修時に、以前と同じように作られたのだとか。
ネットで参観した人の評価を見ると「趣味が悪い」などといった否定的評価も多くみられるが、私もあまり好みではない。
次は花鳥の間へ。130人収容の大食堂である。こちらは16世紀後半のフランスの様式で、板張りの壁。こちらの方が落ち着いていて良いのではないか。ここは壁に貼られている七宝焼という陶器が有名だという。日本画をそのにじみを残して陶器にしたものだが、優れた七宝焼の多くは海外に流出したため、まとまった作品を見られるのはこの部屋位だという。
ここを出ると、この日は閉められている正面玄関の先の階段を上がった所の大ホールに出る。壁は相変わらずの白地に金箔だが、ここの特徴は大理石の柱である。全てヨーロッパからの輸入品であるが、希少な物なのでここまで揃えるのは相当の費用が掛かったらしい。
大ホールの先は朝日の間である。サロンとして使用されている。天井には朝日を背に馬車を走らせる女神が描かれている。フランスの画家が描いたものだが、現地の日本人をモデルにして書いたので、西洋の女神という感じでもない。壁の上部を見ると、南北には海軍を表す船、東西には陸軍を表す鎧とライオンの絵が描かれている。壁の柱はノルウェーの大理石で、大ホールの大理石より希少なものだという。また、柱の間には西陣織が貼られている。なお、この部屋は唯一カーペットが敷かれているが、これも適当な物のはずはなく、昭和の大改修時に選ばれた桜模様のカーペットである。
最後は羽衣の間である。ここは舞踏会場として設計されたので、オーケストラボックスも備えている。しかし、舞踏会は開かれなかったらしい。壁面は彩鸞の間と同じく金箔の覆う漆喰装飾なのだが、こちらは舞踏会場だけあって楽器のレリーフとなっている。また、昭和の大改修時に購入された衝立が展示されていた。人間国宝の作らしいが、この部屋と関係があるのかは分からない。
これで公開されている部屋に関しては見終わったので、迎賓館参観を終えた。外部・内部合わせて2時間と少し滞在した。
全体として、自分の趣味に合うのは花鳥の間くらいであった。その他は、趣向を凝らしている上に、ヨーロッパに行ったことのない人間としては初めて見るスタイルが多く興味深くはあったが、やはり趣味には合わなかった。
ただ、訪問する価値は十二分にあると思う。というのも、まずこの建物は贅を極めており、天井と壁の接合部や床といった地味な部分まで作りこまれているし、徹底的に管理されているので汚れが無い。そのため、目立つ部分だけ贅沢にして細部は手を抜いたり、管理が適当になっていたりする建築に騙されにくくなると思う。さらに、1899年という時代に日本がどれだけヨーロッパに追いつこうとしたか、国力を示そうとしたか、如何にしてヨーロッパ文化に日本文化を組み込もうとしたかという精神を感じに行くという点では、現存する近代建築の中で最高峰となると思う。(個人的には、大規模で重厚な政府系施設というと旧山形県庁の方が好み。)
その後、夕方からの夏期講習まで塾の自習室に居ようと思ったが、自習道具を何も持っていないことに気付いたので、四谷・信濃町界隈を1時間半ほど彷徨った。地図を一切見ずに進んでいたら、若葉→須賀町→左門町→信濃町と歩いていたようだ。風情のある地名が多く、それだけでも楽しい。しかし、暑すぎて頭が痛くなった。危険。